戊辰戦争時の土浦藩について. もしこの記事を気に入っていただき、今後もこうした記事を読みたいと思っていただけたならご支援いただけますと幸いです。お預かりした支援金はすべて攻城団の運営のために使用させていただきます。, また攻城団のことを広く知っていただくために、SNS等でどんどんシェアしていただけるとうれしいです。, あなたもこのブログに記事を書いてみませんか。オリジナルの記事なら大歓迎ですし、あるいはご自身のブログに書いた訪問記の転載でもかまいません。歴史をテーマにした内容であれば広く受け付けています。, 広く歴史をテーマにしたブログです。あまり堅苦しく考えず、楽しく歴史を学べる内容を投稿していきます。, 攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。(フォローするのに攻城団の登録は不要です), 攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。

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!」(『藩と城下町の事典』東京堂出版)と帯に書いてあり、これを書き出せば藩の一覧をつくれるんじゃないかと思うのですが、ことはそう単純ではありませんでした。さすがに七尾藩はどちらの本にも掲載されていませんが、阿保藩(あぼはん)が両書ともに掲載されています。, 阿保藩は関東に同行した菅沼定盈が上野阿保に1万石の所領を与えられたことにはじまるのですが、定盈は慶長年間初期に息子の定仍に家督を譲って隠居、その定仍は「関ヶ原の戦い」の功により伊勢長島藩に加増移封となり、阿保藩は1601年(慶長6年)6月に廃藩となっています。つまり『藩と城下町の事典』の帯にある「546藩」が答えではなく、正解な数はまだわかっていません(さらに付け加えるとこの本に掲載された藩を書き出したものの546に足りてなくて余計に混乱しました)。, そこで今回は『藩史事典』と『藩と城下町の事典』、それとWikiprdiaの一覧を比較しながら、まず確実に「江戸時代に存在した」といえる約500藩を登録し、あとから地道に漏れた藩を補足していくことにしました。大名家の藩主就任の歴史を追っていけば最終的には正しい結果が得られるのではないかと思っています。, なぜ正確な一覧表がどこにも存在しないのかというと、そもそも藩の定義がややこしいという問題があります。基本的な定義は「1万石以上の石高を有する大名の領地」のことを「藩」と呼ぶのですが、前回書いたように江戸時代には藩という言葉が使われていなかったこともあり、当時の資料に「藩の一覧」は存在しません。, ただし『大名武鑑』という大名家の一覧が収録された江戸時代の本を精査することで、その時点の大名家を知ることはできます。「○○藩」とは書かれていませんが、大名ごとに石高と居城は記載されているので一致はさせられそうです。, 余談ですけど、この『大名武鑑』は江戸時代のベストセラーだったそうです。なぜなら参勤交代制がはじまり江戸に諸大名が集まるようになってしまったので、どの大名家かを識別するために彼らと取引を行う商人や大名行列を見物する町人が買い求めたんだとか。現代のタレント名鑑とか野球選手名鑑みたいな感じで、ちょっとおもしろいですね。, 江戸時代に存在した藩、といってもその江戸時代の始まりと終わりが曖昧なのも問題です。一般的には徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した1603年(慶長8年)から、明治に改元された1868年(慶応4年/明治元年)までの265年間を指します。でも「関ヶ原の戦い」が起きた1600年(慶長5年)や豊臣氏が滅亡する1615年(元和元年)を始まりとする説もあるそうです。終わりの時期についても大政奉還を明治天皇に上奏した1867年(慶応3年)や廃藩置県が断行された1871年(明治4年)などいくつかのそれっぽいタイミングがあります。, 先の阿保藩(1601年に廃藩)の場合、江戸幕府樹立をスタートにすると対象外ですが、「関ヶ原の戦い」までスタートをずらせば対象に含まれます。また明治時代に入ってから成立した藩もいくつかあって、たとえば白石藩などは明治元年に立藩しています。, さらに犬山藩や新宮藩など御三家の附家老は大きな領地を与えられていたものの大名の扱いを受けてなかったのですが、大政奉還後の1868年(慶応4年)にようやく認められて藩となったので、藩として数えないケースもあるそうです。なおこうした大政奉還以降に成立した藩のことを「維新立藩(維新後立藩)」と呼ぶそうです。琉球藩も立藩したのは1872年(明治5年)のことでした。, 学者間で結論が出てないことをぼくが考えても時間の無駄なので、今回は江戸幕府樹立(=1603年)から、廃藩置県(=1871年)までを対象とすることにしました。データとしては立藩年(成立年)と廃藩年をそれぞれ保持しているので、あとから期間を変更しても最小限の修正で対応できると思います。, 藩の成立をいつにするかも厄介な問題です。前田家や島津家のように豊臣政権下での大名を「豊臣大名」と呼びますが、彼らは「関ヶ原の戦い」前後で国替えがありませんでした。この場合は江戸幕府から存続を許された時点(所領安堵の朱印状=領知朱印状が発給)で江戸時代における藩となるわけですが、それはだいたい「関ヶ原の戦い」翌年の1601年(慶長6年)頃のようです。, このケースよりもさらに厄介なのが、いわゆる譜代大名と呼ばれる家康の家臣団の扱いです。彼らは家康自身が豊臣大名として関東入封した1590年(天正18年)の時点で、関東地方の各地に所領を与えられており、これも「○○藩」と便宜上呼ばれています。井伊直政が高崎藩、本多忠勝が大多喜藩といった具合ですね。, 井伊家や本多家は江戸時代に入って彦根藩(正確には佐和山藩)や桑名藩に加増移封されますが、そのまま引きつづき同じ領地を藩主として支配した場合もあります。この場合、藩の成立は1590年(天正18年)なのか、あるいは江戸に入ってからちゃんと朱印状が発給されて記録として残っているのかがわかりません。今後ちゃんと調べていけばわかるのかもしれませんが、とりあえずこのケースでは1590年(天正18年)を立藩年として入れています。, 加賀藩なら金沢城といった感じで、藩には藩庁が存在します。小藩であっても陣屋と呼ばれる城の代わりにとなる屋敷がありました。大名になるには1万石以上が必要ですが、さらに城を築くためには3万石がボーダーラインになっていたそうです。では藩には必ず城か陣屋があったのかというと、そうともかぎりません。藩内支藩といって子どもや兄弟に数字上のみ分与しているケースがあるからです。こうした藩内支藩は蔵米支給といって俸禄をもらうだけで領地を有しているわけではないので、当然のように藩庁も存在しません。, たとえば千姫が再婚した本多忠刻には幕府から化粧料として10万石が与えられますが、まだ家督を相続していない部屋住みの身分でもあり、姫路城で暮らしていました。よって姫路新田藩には藩庁がありません。もちろん大半の藩には城なり陣屋なりといった藩庁が存在しているので、データベース化する際にも入力欄は用意しているのですが、必須項目ではないという点は注意が必要です。, とまあこのように「藩の一覧をつくるぞ」と気楽にはじめてみたものの、調べていくといろいろとグレーゾーンも多く、ネットにも書籍にもぼくが求めているリストがなかったことにもうなづけます。調べ物をしていると「ネットに存在しない情報」というのがちょくちょくありますが、まさか江戸時代に存在した藩の数がわからないというのは意外でした。ただ、どこにもないならつくればいいわけで、やりがいも感じています。, 書籍をつくるのとちがい、日々更新していけることが攻城団のようなインターネットサイトの利点ですので、これから少しずつ教わりながら埋めていきたいと思います。仮に完成しなくても、そこそこいいところまで網羅できれば、誰かが引き継いでくれるでしょう。, おもしろくて有意義なプロジェクトだと思いますし、手伝っていただける方も随時募集しております。データベースを入力していきたい、大名家や藩の紹介文を書きたいという方はぜひご連絡ください!, 攻城団では不定期で「日本史の知識をアップデートするための勉強会」という勉強会をオンラインで開催しています(Zoomを使用したビデオミーティング)。 阿部正能 ★ 訪れた城跡や史跡は全国で203箇所を超える。 1999年(平成11年)からウェブプランニング、ゲーム企画に関わる。2000年(平成12年)より、IT・歴史系ライターの仕事を始め、その後はフリーでのウェブプランニングをおこなう。専門学校・カルチャースクールにおいて小説家・イラストレーター志望者に向けた講義もおこなっている。 東海古城研究会 会員 この古地図 with MapFanでは、MapFanAPIの最新地図と、タイムワープMAP・東京制作委員会の製作された東京オリンピック前の東京ならびに江戸時代の古地図を同時表示し、東京の移り変わりを比較することを可能としています。

大久保忠良, 平安時代の末期から、当地の豪族が拠点としてきた小田原。後北条氏が関東一円を支配した際にも、この地を本拠とし、「上杉謙信」や「武田信玄」の侵攻を退けた「小田原城」は、「難攻不落の城」とも称されました。, 豊臣秀吉の「小田原攻め」に備えては、総延長9㎞にも及ぶ日本屈指の長大な土塁と空堀りの総構えを築き、城下一帯をぐるりと取り囲みます。これにはさすがの秀吉も正面突破とはいきません。総勢20万を越えるとも伝わる大勢力で取り囲み、3ヵ月に及ぶ持久戦の末に、無血開城に追い込んだのです。, なお、このとき後北条側では「籠城するか討って出るか」の会議が開かれたものの、意見がまとまることはなく、これにちなんで「結論の出ない会議」のことを「小田原評定」と言うようになりました。, そののち、小田原には秀吉からの名指しもあって、徳川家康の家臣「大久保忠世」(おおくぼただよ)が入り、その嫡男である「忠隣」(ただちか)の代になって、小田原藩が立藩されます。, しかし忠隣は、江戸時代になって改易。理由は豊臣方との近しさや、日頃のふるまいが不興を買ったため、あるいは陰謀によるものと様々に言われています。そのあと幕領とされるのに伴って、小田原城は城下町を取り囲む外郭を取り壊されて、その規模を大幅に縮小することとなりました。, 2代将軍の「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が、小田原に隠居して大御所政治を行なうプランもありましたが、これは秀忠の健康悪化のため果たせませんでした。それ以降の小田原は、幕府の重臣に対する言わば褒賞としての扱いとなります。, そうして領主が様々に代る中、幕末になって「大久保忠朝」(おおくぼただとも)が先祖・忠隣以来の一族の念願だった小田原再入を果たすのです。, しかし、時代は変わっても、東西それぞれにとって、箱根の関所を押さえる要衝であることに変わりはなく、維新の頃になると、大久保家は幕府と新政府のそれぞれからの圧力を受けることになります。, 大久保家としては、先祖伝来のこの地を手放さないことこそが最大の命題であり、一度は幕府側の遊撃隊撃退に乗り出しながら、その遊撃隊と同盟を結んで新政府軍への対抗姿勢を見せるなど、藩の方針は揺れ動くのです。, 明治時代になると、幕府側についたことへの処分を受け、藩主だった「大久保忠礼」(おおくぼただのり)は永蟄居(えいちっきょ)となりますが、その一方で、家名の存続が許され、小田原城もそのまま新政府に預け置かれたのは、前述のような大久保家の事情を鑑みてのことでした。, 事実上、最後の小田原藩主となったのは宗家を相続した「大久保忠良」(おおくぼただよし)です。しかし、政府からの俸禄は江戸時代の頃と比べて、10分1にも満たない2千300石に過ぎませんでした。そんな中、忠良は東京に移住して、家督を養父に譲り陸軍に入隊。「西南戦争」の激戦地に出征して、戦死を遂げることとなったのです。, ちなみに現在も姿を残す小田原城は、昭和35年(1960年)に復興された物。その原型は、後北条氏時代の居館部分を改修する形で、江戸時代に築かれています(実際に後北条氏が詰めていた城は、現在の天守の後方、八幡山にありました)。その天守や櫓、城壁は、「寛永、元禄の大地震」や「関東大震災」において度々倒壊してきましたが、現在では江戸末期の姿に完全復元する計画も持ち上がっています。, 江戸城の築城で知られる室町時代後期の武将「太田道灌」(おおたどうかん)が、江戸城と同時期に、相模守護「上杉持朝」(うえすぎもちとも)の命により、古河公方(こがくぼう:下総国古河[しもうさのくに・こが:現在の茨城県古河市]を根拠地とした、足利成氏[あしかがしげうじ]とその子孫の呼び名)に対抗すべく築いたのが「川越(河越)城」でした。道灌が築城祝いの宴を開いた際に、初雁(はつかり)が飛来したことに由来して、別名「初雁城」とも呼ばれています。, 戦国時代には、後北条氏の居城となりますが、1590年(天正18年)の小田原征伐では、「前田利家」(まえだとしいえ)の軍勢がこれを制圧しました。, 徳川家康の関東移封に伴い、家康最古参の家臣である「酒井重忠」(さかいしげただ)が1万石で入封し、川越藩が成立。武蔵国の中央に位置した川越は、古来、軍事上の要所であったことから、そのあとも大老、老中など、幕政の重職についた有力譜代大名や親藩が入封したのです。城下町は、川越街道や新河岸川により、江戸と結ばれて発展し、「小江戸」(こえど)とも称されています。, 18世紀の中頃に藩主を務めた「秋元涼朝」(あきもとすけとも)が、「田沼意次」(たぬまおきつぐ)との政争に敗れて山形へ転封となると、1767年(明和4年)には、「前橋藩」(まえばしはん:現在の群馬県)に編入される形で、一時川越藩は消滅。しかし、前橋藩主の「松平朝矩」(まつだいらとものり)が居城を川越に移したことで、川越藩の復活となりました。, 武蔵国最大の石高17万石となったのもこの時期で、農業だけでなく、絹織物や養魚などの産業も盛んに行なわれています。, その豊かさ故に幕末になると、浦賀など相模湾の防衛を幕府より任じられることになったのです。1837年(天保8年)、のちに「モリソン号事件」と呼ばれた、浦賀沖に現れたアメリカの商船を砲撃したのも、川越藩でした。, 1847年(弘化4年)、幕府は、江戸湾防衛を川越藩、彦根藩、「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)、忍藩の有力4藩に負わせることを決定。川越藩の分担区域は、三浦半島一帯とその海上とされました。, 1853年(嘉永6年)に、ペリーが来航した久里浜(くりはま)も川越藩兵の担当地域で、ときの藩主「松平典則」(まつだいらつねのり)は、ペリーの上陸に同行しています。, 1854年(嘉永7年)、2度目のペリー来航に際しても、品川台場において、江戸湾防衛を会津藩・忍藩と共に担い、川越藩は、高輪(たかなわ)に陣屋を構えて、第1台場を受け持ったのです。, このとき、藩の鋳物を請け負っていた「小川五郎右衛門」(おがわごろうえもん)に、長射程のカノン砲を鋳造させて設置。藩内に鉄砲射撃場も造営して、西洋砲術の訓練を行ないました。それ以外にも、川越藩では、剣術の「神道無念流」(しんどうむねんりゅう)を重用し、他流試合を積極的に行なうなど、幕末の動乱を予見した軍事強化に余念が無かったと言われています。, また、川越藩は、開国をめぐる世界情勢にも通じていました。川越藩領となっていた前橋の主力産品である生糸の品質向上と増産を図り、藩の専売品として、横浜の港から輸出したのです。これにより、莫大な利益を得たとも伝えられています。, その一方で、川越藩が江戸湾防衛に移ったあとは、「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県)が、三浦半島の防衛を引き継ぐ手はずでした。しかし、その準備が遅れたために川越藩は、三浦半島と品川の双方に、延べ6万人もの藩兵を配置することになり、こうした出費が、藩政を圧迫することとなりました。, これに対する反発もあり、1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争に際しては、藩主の「松平康英」(まつだいらやすひで)が新政府に帰順することで藩論をまとめています。そして、川越城の堀を埋めるなど、官軍にひたすら恭順の姿勢を見せて戦火を回避。また、戊辰戦争における局地戦のひとつとなった「上野戦争」(うえのせんそう)においては、敗走する彰義隊(しょうぎたい)の分派を掃討(そうとう)しました。, 刀剣に秘められた幾多の魅力を皆様にお届けするサイト、刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」。こちらは「主な江戸100藩」内、「関東・甲信越地方」の1ページ目です。50音順に「関東・甲信越地方」の主要な藩を掲載。藩主の家紋や、歴代藩主を知ることができるだけでなく、石高や、藩の歴史・逸話を見ることもできます。なかでも藩のエピソードは読み応え十分!写真や画像と合わせて解説しています。刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の掲載内容は、刀剣・甲冑(鎧兜)の基礎知識をはじめ、日本刀の歴史や雑学、刀剣にまつわる歴史人や合戦、名刀を生み出した名工達の紹介など盛りだくさん。刀剣に関する各種アプリゲーム、刀剣・お城川柳、四文字熟語といった楽しむコンテンツも充実。日本刀や甲冑(鎧兜)に関する様々な情報を、あらゆる角度からバーチャルの世界でお楽しみ頂けます。, 刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の制作は、東建コーポレーション株式会社と一般財団法人 刀剣ワールド財団、株式会社東通エィジェンシーの共同制作です。. 阿部正武 古地図の分類は、山下和正著『地図で読む江戸時代』(柏書房)による分類基準などを参考に、以下の基準に基づいています。, 古地図コレレクションで公開している古地図には、内容の理解の助けになるよう、以下の項目を付しました。, 原則として図の表書きを採用しました。古地図の題名に読み仮名をつけ、読み方が不明の場合は、空白としました。, 古地図の作成年については、和暦・西暦を併記しています。ここでの作成年とは、古地図が作られた年を示します。ただしコレクションの中には、後年にかつての絵図をもとに筆写したものも含まれますが、この場合は解説文を参照してください。, 古地図の作成者を明記しました。古地図に作成者の記載がない場合は、不明として空欄としています。, おもな範囲を現在の地名で記載し、以下の要領で範囲を選定しました。国内個別地名 → 地方名 → 日本 → アジア → 世界(分類例), 各絵図に、1000字程度の解説をつけました。漢字についてはできるだけ常用漢字・新字体を使用し、絵図の題名のみ旧字体を踏襲しました。絵図中の引用文などで、虫くいや汚損などにより判読できない文字については伏せ字(□印)で表示しています。 大久保忠礼

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大久保忠増 一覧[ 城 | 団員 ]. ★ 犬山城天守・犬山城跡の散策は通算548回以上! 迅速測図原図(フランス式彩色図):明治前期に作成された関東地方の2万分1迅速測図原図. 古地図について.

古地図で見る 江戸時代の関東. 阿部正喬 江戸時代に存在した藩、といってもその江戸時代の始まりと終わりが曖昧なのも問題です。 一般的には徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した1603年(慶長8年)から、明治に改元された1868年(慶応4年/明治元年)までの265年間を指します。 現在の新潟県糸魚川市にあたる「糸魚川藩」(いといがわはん)。別名では、藩主が居城とした「清崎城」(きよさきじょう)に由来して「清崎藩」とも言われ、廃藩置県後の一時期には清崎県とされていました。, 戦国時代の上杉家の支配が終わったあとも、江戸と越後を結ぶ千石街道(ちくにかいどう)と北陸沿岸を通る北陸道が交わる接点の宿場町として栄え、1610年(慶長15年)に越後国「高田藩」(たかだはん:現在の新潟県)の一部とされると、その地勢的重要さから糸魚川城代が置かれ、高田藩の家老格がこの地を治めたのです。, しかし1681年(延宝9年)、高田藩主の「松平光長」(まつだいらみつなが)が世継ぎを決める上でのお家騒動(越後騒動)を起こした咎で改易されると、1691年(元禄4年)になって日向「延岡藩」(のべおかはん:現在の宮崎県)から外様の「有馬清純」(ありまきよずみ)が5万石で入封。これにより高田藩から独立した形での糸魚川藩が成立しましたが、わずか4年で有馬家は移封となり廃藩となります。, そのため、いったんは幕府直轄の天領とされましたが、1699年(元禄12年)に「本多助芳」(ほんだすけよし)が1万石で入封して藩として復活。1717年(享保2年)には越前「松平家」から「松平直之」(まつだいらなおゆき)が入ることとなりましたが、直之が糸魚川にたどり着くまでには、大変な紆余曲折があったそうです。, 直之の曽祖父にあたる越前福井藩主「松平光通」(まつだいらみつみち)は、当時美人と名高かった「国姫」を迎えると、彼女を溺愛しましたが、国姫は寵愛を受けながらも子宝に恵まれませんでした。側室には、嫡男にあたる「直堅」(なおたか)が生まれていましたが、あくまでも国姫との間に生まれた子にあとを継がせたいとの思いから、光通はこれを認知しません。, しかし、そんな光通の思いをプレッシャーに感じて国姫は自害してしまいます。そうなれば当然直堅があとを継ぐべきところですが光通はそれを頑なに許さず、あろうことか自らも国姫のあとを追うと、その遺言として自身の弟である「昌親」(まさちか)を後継に指名しました。, いわば棚から牡丹餅の昌親でしたが、そのとき邪魔になるのは光通嫡子の直堅であり、身の危険を察した直堅は信頼できる家臣を連れて福井を脱出して江戸に潜伏します。江戸では幸いにも4代将軍「家綱」(いえつな)に目通りが叶い、直堅は1万石を与えられ一家を構えることを認められました。そうして、その孫の直之の代になってようやく糸魚川に封地を与えられたのです。, とは言え松平家は、定府大名(じょうふだいみょう)として江戸に居住(小藩ゆえ財政的に参勤交代ができないため)。実質的な統治は、藩主の居城の清崎城とは別に置かれた糸魚川陣屋において、郡代(ぐんだい)が行なっていました。, そののち、糸魚川藩は享保末期から天災が相次いだこともあり財政が著しく悪化。このため増税を行なったことが領民達の怒りを買うと、事態打開のために改革を実施しようとしたものの失敗。これに伴う苛酷な御用金の徴収に対して一揆が頻発する事態に陥りました。, 1650年(慶安3年)に、この地で酒造を始めてから今も続く「加賀の井酒造」は、酒処の新潟県でも最古の酒蔵。この酒を献上された「加賀藩」(かがはん:現在の石川県)の「前田利常」(まえだとしつね)がいたく気に入って、加賀ではないのに特例としてその字を使うことを許したことがその屋号の由来です。, 2016年(平成28年)の糸魚川市大規模火災によって、酒造を含めた社屋は全焼となりましたが、再建されて2018年(平成30年)より出荷が再開されています。, 鎌倉・室町時代から下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)を始めとする各地の守護職を務め、戦国時代には関東八家にも数えられた名門・宇都宮家(うつのみやけ)。, 「豊臣秀吉」の世になって「太閤検地」(たいこうけんち)で石高を過少申告していたことが発覚したため所領没収のうえ改易となりますが、宇都宮の名はそのまま残って今もなお引き継がれています。, 「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)が建立されてからは、宇都宮城が徳川家参拝時の宿泊地とされ、城下も宿場町として大いに栄えました。, また、現在の宇都宮市北西部・大谷町一帯から採掘される大谷石は、軽くて加工しやすい上に耐火性に優れるとして飛鳥時代から古墳などに使用されてきた物です。江戸時代には一般用のかまどなどにまで広く使われるようになり、もともとは農閑期に副業として行なっていた石切を本業とする農民が増加します。, これにより、一時的にはかなり潤ったと言うことですが肝心の農業は衰退してしまい、16世紀末から17世紀に入って天災が相次ぐと藩の財政は逼迫。農民の暮らしも困窮することとなりました。, 正式に「宇都宮藩」(うつのみやはん)として成立したのは1601年(慶長6年)、「徳川家康」の娘婿である「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)の嫡子、つまりは家康の孫にあたる「奥平家昌」(おくだいらいえまさ)が10万石で入封してからのこと。, しかし、家昌は1614年(慶長19年)に38歳の若さで病没。長男の「忠昌」(ただまさ)が家督を継ぐことになりますが、このときまだ7歳の幼子で、「関東の要衝を任せるには若すぎる」との幕府の意向から下総(しもうさ)「古河藩」(こがはん:現在の千葉県と茨城県)に移封となります。, このあとを継いで藩主となったのは、幕府の重臣「本多正純」(ほんだまさずみ)でしたが、宇都宮城に釣天井を仕掛けて2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の暗殺を謀ったとの嫌疑から本多家は改易、正純は流罪となりました(通称:宇都宮城釣天井事件。実際にそうした事実はなく、他の徳川家臣による策謀であったと言われています)。, そののち、奥平忠昌が再封しますが、その死後には、かの「赤穂浪士」も参考にしたと言われる事件「浄瑠璃坂の仇討」が勃発。, 1668年4月13日(寛文8年3月2日)、忠昌の法要において、ささいなことから口論になった「奥平内蔵允」(おくだいらくらのじょう)と「奥平隼人」(おくだいらはやと)。内蔵允は、怒りに任せて抜刀したが返り討ちの刀傷を負います。この失態を恥じた内蔵允は、その夜のうちに切腹してしまいました。, その半年後、この件に対する藩からの処分が下されます。内蔵允の嫡子「源八」(げんぱち)は、家禄没収の上に藩から追放。しかし、もう一方の当事者である隼人は単に改易を命じられただけと言う不公平なものでした。, 源八への同情が集まり仇討の機運が高まると、これを助太刀するために脱藩する者も現れて40名以上が参集。浪士達はまず隼人の実弟を討ち取ると、本命である隼人討伐に向けての作戦計画が練られることとなります。, そうしてことの発端から4年が過ぎた1672年(寛文12年2月3日)の未明、源八とその一党42名はついに隼人の潜む江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の屋敷へ討ち入り、悲願を果たしたのでした。, 源八ら一党は、直後に幕府へ出頭して裁きを委ねると(赤穂浪士が討ち入り後に出頭したのもこれに倣ったものと言われます)、その殊勝な態度に感銘を受けた大老「井伊直澄」(いいなおすみ)は切腹ではなく伊豆大島への流罪を申し渡したのです。, なお源八はその6年後、恩赦によって赦免されて「彦根藩」(ひこねはん:現在の滋賀県)の「井伊家」(いいけ)に召し抱えられています。, 阿部忠秋
その後藩主家がいくつか代わり、貞享4年(1687年)、土屋政直が再び6万5千石で入封、幕末維新まで続いた。 戊辰戦争への対応:早くから新政府軍に恭順し、東北戦線にも出兵した。 全国 史跡巡りと地形地図. 関東地方の大名配置図(1630年) ・1622年本多家15.5万石改易 不忠(宇都宮釣天井事件)により改易 関東地方の大名配置図 ・関ヶ原の戦い前 ・関ヶ原の戦い後. 江戸300藩がわかる 幕末諸藩の状況 全国の幕末300藩について、各藩の藩主と石高、将軍との関係(親藩、譜代、外様)及び戊辰戦争時の諸藩の対応状況に、今回訪ねた京屋敷地(〇印)も付け加え、国別に取り纏めています。 土浦藩:譜代 9.5万石 Wikipedia 居城:茨城県土浦市 土浦城 別名:亀城(きじょう) Wikipedia 城郭構造:輪郭式平城 開戦時藩主:土屋寅直(ともなお 当時47歳) 藩主家の変遷:慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、譜代の松平信一が3万5000石で土浦に入り、土浦藩が立藩した。 ライブラリ  こちらは、刀剣ワールド「主な江戸100藩」内、「関東・甲信越地方」の1ページ目です。「関東・甲信越地方」に存在した主要な藩について、石高や居城、歴史藩主、治世などのエピソードや解説を見ることが可能。データや逸話から藩の魅力に迫ります。 国立国会図書館所蔵の近世以前の絵図・古地図; 国絵図を探す; 伊能図; 城絵図・城郭図を探す Home; 古地図を見る; 古地図について; このサイトについて; 天保十三年(1842)の、関東一円が描かれた古地図がオンラインでご覧いただけます。 古地図を見る. ALL RIGHTS RESERVED. 近江小室藩: 小室陣屋: 1619年 ~1788年: 本藩: かただはん. 大久保忠方 関東地方の大名配置図 ; 中部地方の大名配置図 ... 江戸時代の大名領地Map. 大久保忠由 阿部正由 Copyright © 土地活用の東建コーポレーション ALL RIGHTS RESERVED. ブログ  また、この地図の面白いところは当時の村々のかなり細かい地名まで記載されていることで、みなさんがお住まいの現在の地名と照らしてみると、馴染みのある地名が古く江戸時代から使われていたことなど、面白い発見があるのではないかと思います。 Copyright. という信念から、企画・製作・出演・運営まですべて一人で手掛けています。, (略歴) ニュース  Geospatial Information Authority of Japan. Instagram 

関東地方の大名配置図 ; 中部地方の大名配置図 ... 江戸時代の大名領地Map. このサイトに掲載の古地図は、天保十三年(1842)に作成された「富士見十三州輿地全図」を、オンライン閲覧用にスキャン・加工したものです。, 「富士見十三州」とは、文字どおり「富士山を望むことが出来る十三の国(州)」の意味で、武蔵、安房、上総、下総、常陸、伊豆、相模、駿河、遠江、甲斐、信濃、上野、下野の十三の国々をいいます。当時はかなり広範な地域から富士山を見ることができたことが分かりますね。, また、この地図の面白いところは当時の村々のかなり細かい地名まで記載されていることで、みなさんがお住まいの現在の地名と照らしてみると、馴染みのある地名が古く江戸時代から使われていたことなど、面白い発見があるのではないかと思います。, 時代劇や時代小説がお好きな方は舞台となった場所を地図で調べてみるのも楽しいのでは。そのほか各地の名所旧跡や温泉なども記載されていますので、ぜひ拡大してじっくり観察してみてください。, 掲載の古地図は、サイト管理人が個人的に所蔵・管理しているもので、その著作権は当サイト管理者に帰属します。, サイトの構成、レイアウト、デザインについても同様です。 区分 名称 別名 藩庁 期間 備考; 本藩: ひこねはん. 古地図の分類は、山下和正著『地図で読む江戸時代』(柏書房)による分類基準などを参考に、以下の基準に基づいています。 伊能図:伊能忠敬の率いる測量隊によって作成された地図、伊能大図彩色図を含む; 日本図:日本全体を描くもの; 地方図:国レベルを超える広域の一般図(道中図な� 大久保忠興 「○○より○○迄」といった際の「より」が、くずし字で「ろ」のように書かれている場合についても、「ヨリ」と半角カタカナ文字で表記しています。, 〒305-0811 こちらのページでは「主な江戸100藩」をご紹介しています。徳川家康から始まり、260年も続いた江戸時代。全国各地に約300近くの藩が存在しており、その中から代表的な江戸100藩のエピソードや解説を見ることができます。各地域を選んで、ご覧下さい。 阿部正識 東北地方の大名配置図.

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