王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì〈ワン・チェンジー〉、1940年(昭和15年)5月20日 - )は、東京府東京市本所区(現・墨田区)生まれ、中華民国籍の日本の元プロ野球選手・監督。血液型はO型。愛称は「世界の王」「ワンちゃん」。, 史上3人目・セ・リーグ初の三冠王達成者。世界記録となるレギュラーシーズン通算本塁打868本を記録し、読売ジャイアンツのV9に貢献した。また、シーズン四球(158個)、シーズン敬遠(45回)、シーズン出塁率(.532)、シーズンOPS(1.293)、通算得点(1967点)、通算塁打(5862塁打)、通算打点(2170打点)、通算四球(2390個)、通算敬遠(427回)、通算出塁率(.446)、通算長打率(.634)、通算OPS(1.080)の日本記録保持者。NPB最多記録となる本塁打王を15回、打点王を13回、最多出塁数(現在の最高出塁率)を12回を獲得、NPB最多記録となる最優秀選手を9回受賞している。セ・リーグ最多記録となるベストナインも18回受賞している。またセ・リーグ初の最多出塁数を獲得、セ・リーグ初の一塁手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。, 「一本足打法(世界のフラミンゴ)」と呼ばれる独特の打法で通算本塁打数、当時のシーズン本塁打数の日本記録を打ち立てるなど[1]、ON砲として並び称された長嶋茂雄とともに、巨人の「V9」時代の顔として国民的人気を誇った。王の記録したシーズン公式戦通算本塁打868本は日本プロ野球記録であり、ハンク・アーロンが保持していた当時のメジャーリーグ通算本塁打記録の755本塁打を抜いた事で知られるほか[注釈 1]、数々の日本プロ野球記録を保持する(記録の詳細については後述)。, 現役引退後は巨人、ダイエー・ソフトバンクで監督を歴任した。2008年シーズン終了と同時にソフトバンクの監督を退任し、同球団取締役最高顧問に就任。2009年1月1日より取締役会長。第1回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の優勝監督であり、第2回大会では監督相談役、第3回大会では特別顧問[2]を務めた。, 現在はソフトバンク球団取締役会長終身GM、日本プロ野球組織(NPB)コミッショナー特別顧問、読売巨人軍OB会顧問(2014年まで会長)、日本プロ野球名球会顧問、世界少年野球大会を主催する世界少年野球推進財団理事長、外務省より委嘱の野球特別大使、「ふるさと清掃運動会」実行委員長、九州国立博物館評議員などを務める。, 中華民国二等景星勲章授与[3][4]。東京都名誉都民[5]、墨田区名誉区民[6]、目黒区名誉区民[7]、福岡市名誉市民[8]、宮崎市名誉市民[9]。, 東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)で、中華民国籍の王仕福(1901〜1985・現:中国浙江省麗水市青田県出身[10]、1922年渡日)、日本人の登美(1901〜2010・富山県富山市出身[11]、旧姓:當住)の次男として生まれる。, 1940年5月10日に二卵性双生児の弟として出生したが、戸籍上の出生日は5月20日である。実際の出生日と戸籍上の出生日が異なる理由は、両親が「この子は長く持ちそうにない」と出生届の提出を見合わせていたからと自著『もっと遠くへ~私の履歴書~』で王自身が述べており、出産時には仮死状態でその後も病弱で両親も随分心配したという[12]。「3つの歳まで立つことすらおぼつかず、4歳でやっと丈夫になれた[13]」と本人が述べている。, 6人兄妹の次男であり、長兄は鉄城、長姉は幸江、次姉に順子、同じ日に生まれた双子の姉・廣子(1歳3ヶ月で死去)、末妹の佳子(数ヶ月で死去)で、結局末っ子として育てられた[14]。太平洋戦争中の一時期、王一家は母親の旧姓「當住」を名乗っていたこともあったという。, 王いわく「自分は中学生の時点で175cm前後あり、実際に肩幅もよかった。もっと実際の話をすれば、好戦的だったと認められていた。」とのことである。一方で自著『もっと遠くへ~私の履歴書~』では、中華料理『五十番』を経営する父の王仕福が働き者で地元に溶け込もうと近所付き合いがよかったと記している[15]。, 小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。, 野球との出会いは、まだ子どもの頃の神社の境内や路地での草野球であり、本格的に野球を始めたのは兄の鉄城が慶応義塾大学医学部に入学し野球部に入ったことで、その兄に連れられて野球部の合宿に行ったことから、小学校4年生でクラス仲間とチームを作った。懸垂も出来ず腕相撲もからっきし弱い子だったが野球はうまく投手で4番を打っていた。1953年に墨田区立業平小学校を卒業した[16]が、進学した区立本所中学には野球部がなく、地元の町工場のおやじさんが作った高校生主体の野球クラブ「厩四ケープハーツ」に中学生ながらチームに加わり、しばらくこのクラブで自分よりも年上の大きな上級生にもまれながら活動していた。そして同じようにこのチームに入った同じ中学の子がキャッチャーを務めていて、その後「本所中学にすごいのがいるらしい」との噂が広がり、ある日中学校に東京都の野球大会の招待状が届き、本所中学校で何とかメンバーをかき集め急遽参加した。投手と捕手以外は素人同然であったが、あれよあれよという間に区大会で優勝し、東京都大会では2回戦で負けたが、バッテリーがしっかりしていれば野球になることを実感していた[17]。, この高校生と社会人ばかりの厩四ケープハーツの、厩四は「墨田区厩橋四丁目」からで、ケープハーツは当時1950年に社会人野球の代表と戦うために来日したアメリカのチーム名を借りたものであった。そしてこのチームで後に王のコーチとなり師匠となる荒川博との出会いがあった。, 区立本所中学2年生であった1954年11月末に、隅田公園今戸グラウンドで厩四ケープハーツの試合に参加していた際に、2打席凡退の後に自転車で通りがかった見知らぬおじさんが1人で割り込んできた。当時毎日オリオンズの現役選手だった荒川博で、犬の散歩をしている際に通りがかって、たまたま王が出ていた野球の試合を眺めていたというものである[18]。, 試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」[要出典][19]と質問すると、王は「それは、親父から箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と答えた。もともと左打者だった荒川は、「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」[要出典]と言った[20]。, それを聞いた王はすぐに左打席に入り打ってみると、左中間をライナーで破る二塁打となり、以後は左で打つようになった[21]。この時、中学生でありながら身長176cmと長身だった王を見て、荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えると、その野球チームは高校生を含めた社会人チームであり、周囲の大人と大差ない体格をしていたので、荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の母校)はどうかな?」と勧めると、王が「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と答えたため、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたという。, のちに王は、「荒川さんによれば、最初の右の2打席はとても見られたものでなく、左打ちを薦めたのは私が左で投げていたからで深い意味はなかったそうだが、これが私の人生の転機になったことは間違いない」と著書で述べている[22]。, やがて高校進学を迎えて、将来は技師にという父が望む未来が頭にあり、勉学に励むつもりであった。この時には「荒川さんがいた早稲田実業野球部に入り、その後ジャイアンツに入り、やがて荒川さんに再会することなど夢にも思わなかった[23]」とのことである。, 父・仕福は自分の出身地に医師がおらず、また電気も全くなかったことから長男・鉄城を医師に、貞治を電気技師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。王は進学校の都立両国高校の受験を目指したが、担任教師から少し危ないとのことで、同じ進学校の都立墨田川高校ならということで仲間2人と一緒に受けた。ところが合格ラインすれすれと思われた1人だけが合格で、まず余裕をもって受験した2人(王も含む)が落ちる結果となり大きなショックを受けた[24]。そこで荒川博の母校でもあった早稲田実業学校高等部商業科に進学することになった。当時、墨田川高校には硬式野球部がなく、後に王はこの受験失敗を「人生の大きな分岐点の1つ」と振り返っている[25]。また、荒川との出会いがなければ、都立墨田川高校受験失敗後、野球をやろうと思って早稲田実業高校に行くこともなく、巨人への入団もなかったと述べている[26]。, 早稲田実業高校に入学してすぐに野球部に入った。早実野球部とは王が中学生時代に厩四ケープハーツのメンバーと一緒に練習に参加したことがあった。この時に久保田高行総監督・宮井勝成監督とも会っており、中学生離れしたサウスポーとして名が知られるようになったことで勧誘もあった。他に明治高や日大三高などの当時の強豪校からも誘いが来ていたが、最初に声をかけてくれた早実に恩義を感じていた[27]。, この時の野球部には、3年生に後に国鉄スワローズに入った徳武定之、毎日オリオンズに入った醍醐猛夫がいた。入部して僅か1ヵ月後の5月には、3年生エース大井孝夫に代わり1956年春季関東大会東京都予選決勝に先発。同年の春の選抜にエース並木輝男を擁し出場した日大三高を4-0で完封した。この直後に有頂天になってグラブを放り上げて喜んだが、観戦に来ていた兄の鉄城に「お前は相手の気持ちを考えたことがあるのか」と後に咎められて、父の仕福が戒めとした「日本に来て、日本に生かされている」ことを忘れず偉ぶったりおごったりして他人に反感を買うことが最もいけないことであることを、改めて思い知るのであった。王はこの時以後、嬉しいときも悔しいことも感情を出さないようになった[28]。春季関東大会準決勝でも高崎高に完封勝ち、決勝は大井が神奈川商工を抑えて優勝を飾る。, 2ヵ月後に夏の甲子園東京都予選に出場。王は左翼手兼控え投手としてレギュラー入りし、1年生ながら徳武、醍醐の3・4番のあとの5番を任された。準決勝では、当時の早実の最大のライバルであった明治高(この時のエースは村田元一で後に国鉄スワローズに入り、王にプロ入り初の本塁打を打たれた)を2-1で破る。決勝も成蹊高を13-1で下し、夏の甲子園に出場、王は甲子園の土を初めて踏んだ。1回戦の相手は新宮高であったが、王は5番左翼手として出場し順調に勝ち上がる。2回戦では1年生ながら初めて先発として起用された。しかし同年に春夏の甲子園連続準優勝を果たす強豪・県岐阜商の左腕エース清沢忠彦と投げ合い、1-8と敗れる。この時に王は知らなかったのだが、後にバッテリーを組んだ醍醐から次のように聞かされた。試合前夜に主将であった醍醐が、久保田高行総監督・宮井勝成監督から次の試合に1年生の王を先発させると告げられて、「なぜ3年生の主戦投手でないのか」と不満げに聞くと、「次の春から先のことを考えているんだ」と話していたという。この試合の主審を務めたのが山本英一郎(後の日本野球連盟会長)で、醍醐の話によると、この試合で山本主審はボール球を連発する王の投球に「何てコントロールが悪いんだ」とぶつぶつ言っていたらしい[29]。, この年の秋から1年生ながらエースとなった。久保田・宮井両監督の指導のもと、投げる際に腕を頭の上に振りかぶらないノーワインドアップ投法により制球難を克服し、投球に安定感が増した。ちょうどその頃にワールドシリーズでニューヨーク・ヤンキースのドン・ラーセン投手が完全試合をノーワインドアップで成し遂げたことから、王の投法に「ラーセンばりの」という形容詞が付いた。王にすればラーセンの存在はそれよりも早く、荒川宅で8ミリフィルムの映像を見て既に知っており、完全試合で有名になる前にその投法で投げていたという[30]。, 1957年、二度目の甲子園出場となった春の選抜は準決勝まで3試合連続完封。4月7日の決勝は、後にプロで同僚となる高知商の小松俊広との左腕対決となる。8回に3点を奪われて4試合連続完封を逃したものの5-3で完投勝利、関東に初めて選抜優勝旗をもたらした。この試合では左手中指と人差し指のマメがつぶれ、血染めのボールによる完投となる。春の選抜優勝で王は全国に注目される存在となった。続く夏の選手権では、2回戦で寝屋川高から延長11回の熱戦でノーヒットノーランを達成。延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である。後年、王は「高校2年の頃が投手としてピークだったと思う。この後バッティングは良くなっていったけど、ピッチングはどことはいえないが、どこかおかしくなっていった」と語っている。この大会は準々決勝で小川博、河東真を打線の中軸とする法政二高に1-2で惜敗した。, この年の秋、早実は静岡国体の硬式野球高校部門に選出されたが、王は当時の国籍規定(王は中華民国(台湾)国籍)のため出場できなかった(なお、現在はこの国籍規定は撤廃されている)。王は自著「回想」では「生涯最も悔しかったこと」と語っているが、後年のインタビューでは「高校球児は甲子園こそ目標で、国体にはそこまでのモチベーションはなかった。今振り返ってもそういうこともあったな、程度。甲子園大会でそういう規定があったら悔やんでも悔やみきれなかっただろうけど」と語っている[25]。国体では王の同期である河原田明らが登板したが、1回戦で倉島今朝徳のいた上田松尾高に敗れる。, 翌1958年、3年生の時の春の選抜では打者としても活躍し、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った(当時の甲子園球場はラッキーゾーンはあったが、高校野球も木製バットを使用していた。金属バットの使用が認められるのは1974年からである)。この大会は準々決勝で済々黌高に敗退。同年夏は東京都予選決勝で明治高と対戦、1-1で迎えた延長12回表に4点を奪いながら、その裏に5点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫し、5季連続の甲子園出場は果たせなかった。この時、早実の野球部長の音頭により、甲子園本大会に向けて大阪に出発する明治高ナインを早実野球部員全員で東京駅にて見送った。もともと王は父の意向もあって大学進学を考えており、高校2年生の夏にはすでに読売ジャイアンツより誘いがあったが、大学進学を考えていたため断っている[25]。王は「もし5季連続出場を果たしていたら野球にけじめをつけて大学にいっていたと思う。最後に出られなかったことで気持ちが宙ぶらりんになった」と語っている[25]。, プロ野球の各チームが熱心に誘ったが、特に熱心だったのが王に縁の深い甲子園を本拠地とする大阪タイガース(阪神) であった[31]。新聞は「王、阪神へ」と大きく報道。親も高卒選手の多い阪神を薦めていたため、当初は前述の事情もあってスカウト合戦に参戦していなかった巨人が急きょ「大学に行くと聞いていたので獲得に乗り出さなかったが、プロに行くならぜひうちへ」と獲得に名乗りを上げた。もともと東京で生まれ育った王は「プロに行くなら巨人」と考えており、気持ちは非常に揺れ動いたという。しかし、最後は自分の気持ちを貫き、巨人入団を決めた。兄・鉄城が同意してくれたことも心強かったという[25]。, 1959年に契約金1,800万円[32]、年俸144万円、背番号「1」という高卒新人としては破格の条件で巨人に入団。背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説や、南村侑広の引退によって1が空いていたためという説もある。プロ入りの同期には村山実、板東英二、河村保彦、江藤愼一、田中俊幸、張本勲、足立光宏らがいる。, もともと投打の才能を買われて入団し、1959年2月のキャンプで初めはブルペンで投球練習に参加したが、王自身が「ブルペンに入ってみて先輩の球との勢いの差があるのが自分でもわかった。ましてやコーチ陣には一目瞭然だっただろう」と後に述べて、キャンプ中に水原茂監督と前年に引退した川上哲治ヘッドコーチ、中尾碩志投手コーチに呼び出されて、水原監督から「王、明日からもう投げなくていい」と言い渡された。しかし打撃に関しては練習でも先輩に負けない飛距離が出て、昨年、ルーキーながらに二冠のタイトルをとった長嶋からもウィークポイントが少ないとの評価をもらっていた[33]。, 高校生時代は甲子園優勝投手として有名な存在であったが、プロ入団後は投手としての王は首脳陣や先輩から評価は得られなかったが、打者としての評価は太鼓判を押されるほどだった。当時エースの藤田元司はこの時のキャンプでの王の印象として、「甲子園で活躍するなど高校時代に頑張りすぎたのか、僕が見る限り投手としての王君はくたびれていましたね」と述べている。また、この年からコーチになった川上は、「何というか、球筋がやさしいんですね。"おおっ"っていうのがない。しかしバッティングはすごかった」と語っている。川上によれば、王のバッティングは構えからスイングまで全く顔が動かず、新人ながら基本が完成していたという。当時二軍監督だった千葉茂は練習後に王と入浴した際、「王の体格には驚いた、非常にいい筋肉をしておる。ただし、いかり肩で大成した投手はいないだけに、投手としては厳しいだろう」と感じ、水原に「ピッチャーとしてはあきまへん。でもバッターなら川上の半分は打ちます」と野手起用を進言した。, 王自身は自分が投手として通用しないことは薄々感じてはいたと「現実問題として投手としての私は高校2年を頂点として下っていた」とし、でもやはり野球をやる者なら誰でも投手に憧れるもので、「野球は何といっても投手だ。一度でも経験した者は『生涯投手』と思うもので未練はあった」と述べつつ「一方でほっとした自分もいた」とも述べている[34]。, 王にとってラッキーであったのは野手のポジション争いで、川上の引退直後で一塁が空いていたことであった。当初は一塁に与那嶺要を外野からコンバートさせて、王は外野のポジションでの起用を水原監督は考え、オープン戦で右翼を守らせ、与那嶺を一塁に起用したが、王には外野は務まらないということで一塁に王を起用し与那嶺はもとの外野に戻った[35]。, 当時の週刊ベースボールの記事で「ワンさんのバッティングうまいネ。ボクが長い間かかって掴んだ左右打ちのコツを知っている。だから打率いいネ。一塁のポストは取られる。早くワンさんの一塁を決めてもらった方がいい。中途半端で自分が外野の練習できないネ」と与那嶺のコメントが載っていた[36]。与那嶺はこの時までに首位打者に3度輝き、デビューから7年連続3割を打ち、ベストナイン7回受賞で前年に初めて3割を割ったが打率.293の成績を残していた選手である。, 王が入団した当時の巨人は、1951年から1953年まで日本シリーズ3連覇した巨人軍第二期黄金時代が去り、前年に西鉄の日本シリーズ3連覇の前に苦汁を飲まされ、川上哲治・千葉茂は引退し、ベテラン投手の別所毅彦はこの年300勝を目指し翌年を最後に引退し、大友工も力が衰えて巨人は新旧交代の時期であった。投手では藤田元司、堀内庄、安原達佳、捕手で藤尾茂(この年に森昌彦が台頭)、内野手では広岡達朗、土屋正孝、長嶋、外野手では坂崎一彦、宮本敏雄、ベテランの与那嶺がいたが、チームを引っ張っていたのは前年にデビューしたばかりの長嶋であった。それだけに王は若手で長嶋に続く次代のホープとして期待されるルーキーであった。, 開幕前のオープン戦では本塁打5本を放つなど目立った活躍で新人ながら注目を集め、王は前年の長嶋がデビュー前のオープン戦で本塁打7本打ったことを聞いて「行ける」と思った[37]。そして4月11日の開幕日を迎えた。この日宇野光雄監督の国鉄スワローズとの開幕戦で高卒新人ながら7番・一塁で先発出場を果たし[38]、しかも相手投手はすでに大投手であった金田正一であった。しかし、この試合でエース金田正一と対戦した王は3打席で2三振1四球に終わった。王は「金田さんには前年の長嶋さんでさえ、ああだったんだから、しょうがないや」と思ったという。しかしその後は快音が聞かれず、「公式戦での投手の攻めは違っていた」という。そしてこれ以降、オープン戦とは違って当たりが止まって、デビュー初安打もなく10試合無安打が続き、26打席無安打となった。それでも水原監督は王を起用し続けた。このことで王の父母は「おかげで今のおまえがあるんだよ」と後々まで感謝していた[39]。, そして4月26日後楽園球場での国鉄との6回戦(ダブルヘッダー第2試合)で0対0で迎えた7回表二死、敵失で出塁した坂崎一彦を一塁に置いて王に第3打席が巡ってきた。すでに2打席凡退の後で、水原監督は代打を考えたが、この日の王の打順は8番で二死で得点圏に走者が無く次打者が投手なので代打を温存したい事情もあり、王をそのまま打席に送った。王は国鉄村田元一投手が2ストライク1ボールからの4球目に投じた内角低めのカーブをすくい上げると、打球はライトスタンド最前列に落ち公式戦初安打が決勝2ランホームラン(出場11試合目)となった。これが王の記念すべき第1号本塁打となった。それは開幕以来27打席目の快音であった。この試合は巨人の左腕伊藤芳明投手が4安打完封して、巨人が2対0で勝った。, 同年6月25日の天覧試合となった対阪神戦では、7回に2対4と2点差を巨人が追う場面で阪神のエース小山正明から4号同点2ランを打って、これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打の第1号となった。, しかしそれ以外はほとんど目立った活躍もなく、1年目は打率.161・本塁打7本と物足りない結果に終わった。特に目立ったのが72を数えた三振の多さで(2.7打数に1三振に相当)、「王は王でも三振王」などと野次られるなど、後に本塁打王と呼ばれるとは思えない成績だった[40]。ただし、主力選手でも遠慮していた水原監督の隣の座をいつも占め、「監督、今の一塁手のプレーにはどういう意味があるのでしょうか?」と堂々と質問したり、記者から「(不振の)重圧はありませんか?」と尋ねられても、「別に。使っているのは監督さんですから」と答え、新人としては異例の姿勢だった。また、期待はずれの成績にもかかわらず、2年目の年俸は推定140万円から160万円にアップした。これは練習の球拾い時に自腹で専用の糸を購入し丁寧にボールの破れを修繕していたことを球団代表が評価したため。なお、この球団の評価に感銘した王は、以後現役引退するまで1度も契約更改でもめることはなかった。ただし、後年のV9時代、ある年の契約更改後に球団某幹部から「もう少し(金額を)言ってくれても出したのに」と言われた時はさすがに内心ムッとしたらしく、「だったら契約更改の時にその(上げた)金額を提示してくれればいいのに」と思ったという[41]。, 翌1960年の2年目は打率.270・本塁打17本(このシーズンのチーム最多)と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。これは、東京六大学野球の早稲田大学から大型一塁手木次文夫が巨人に入団したことで危機感を抱いたことも好影響を及ぼしたといわれる。しかし三振も101個と依然として多かった。, 最初の2年間は水原監督のもとでの巨人であったが、1年目はリーグ優勝を果たしたが日本シリーズで鶴岡監督の南海ホークスに1勝も出来ずに屈辱の4連敗で敗退し、1956年から日本シリーズを4年連続して敗れ去った。2年目は前年最下位の大洋ホエールズがこの年に西鉄から三原脩を監督に迎えて宿敵巨人を破りリーグ優勝を果たし、巨人は6年連続リーグ優勝は成らず2位に終わった。, 3年目の1961年、川上が水原の後を継いで監督に就任。川上は王に長嶋に次ぐ中心打者としての活躍を期待したが、打率.253・本塁打13本と2年目より成績を落とし、期待に応えることはできなかった。この年中日に入団し、ルーキーながらエースとして活躍した権藤博は王について「速球はある程度対応してくるけど、カーブを投げておけば簡単に空振りして尻餅をついていた。かわいいもんだと思った」と語っている。高卒3年目としてはそれなりの成績だったが、契約金の額や首脳陣の期待からすれば物足りない数字だった。この時期の巨人はこの年に3年連続首位打者となった長嶋だけが孤軍奮闘して、巨人はリーグ優勝とともに日本シリーズも6年ぶりに制覇した。しかしチーム打率はリーグ最低の.226でそれでリーグ最多の435の総得点を上げており、貧打打線であることには変わりはなく、これは翌年まで続いた。王はこの日本シリーズ第1戦、第2戦で4番に起用されていたが成果はなかった。また、同年オフに、阪急ブレーブスの米田哲也とのトレード話が持ち上がっていたが、不成立で終わった。, 1961年のシーズン終了後、荒川博が巨人の打撃コーチに就任する[42]。荒川のコーチ就任は、当時大毎で榎本喜八を教え込んだことで広岡達朗が川上監督に進言し、荒川を推薦したものであり、川上は榎本を育てた荒川の打撃コーチとしての手腕に王を託した。川上は荒川とはそれまで面識が無かった。王について「3割、25本塁打は十分打てる素質がある[43]」と見込んでおり、その見込みに対して成績が思うように伸びない理由は、練習をちゃんとしないために結果が出ず、そのために自信を持てず、更に練習に身が入らない、という悪循環のためだと考えた。川上が荒川に最も強く期待したのは、王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。61年の秋季キャンプで久々に王を見た荒川は「ひでえもんだ」「なんだ、こんなスイングではドッジボールでしか当たらんぞ」「遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放ったという[44]。王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川は同時に「これだけ(打ちにいく際に、手足の動きがバラバラで不安定・一定でないため、簡単にスイングを崩される)悪い打ち方 でも、.270打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。, 翌1962年のキャンプで荒川は、「バックスイングに入る始動が遅いから、打つときにバットの出が遅れるんだ」と判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。そのうちのひとつが「一本足打法」だった。王は後の著書『もっと遠くへ ~私の履歴書~』でキャンプ中の2月12日だったと述懐して、「私のスイングは右足のステップのタイミングに対し上半身の動きが遅すぎた。つまり上下バラバラ。これを連動させるのが一本足だった。」と書いている[45]。この時はいくつか試した打法のひとつに過ぎず、ほんの2・3日練習しただけだった[1]。王は右足を上げた時に手首を回す悪い癖があったので、最初からステップした状態を作っておけばその悪癖を修正できるというのが荒川の狙いであった[46]。荒川は1962年1月から後に「荒川ノート」と呼ばれたコーチ日誌を書き始めたが、その最初の1月20日の項で当時の王のバッティングについて「バットと体がバラバラ」「ティーバッティングの時に手だけのバットスイングでバットの下から出ている」と記している[47]。, 1962年のシーズン開幕戦(4月7日、対阪神)で川上は前年の日本シリーズに続き、公式戦で初めて22歳の王を4番で起用した。長嶋が出塁して王の長打で得点することを川上は期待していたが、開幕してから3ヶ月経った時点では本塁打9本という成績で、6月後半は極度の不振に陥っていた。自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れず、2位と3位を往復するばかりの状態だった。主砲の長嶋が不調で、投手陣も期待の新人で開幕投手の城之内が前半思ったほどの勝ち星が上げられず、前年チーム最多勝の中村稔も躓き、2年前に新人で最多勝だった堀本律雄も力が落ち、元エース藤田は全盛期を過ぎ、前年甲子園を沸かせた柴田勲も0勝2敗と期待外れ(後に野手に転向)であった。内野では遊撃の広岡は安定していたが、土屋が抜けて塩原や須藤らが二塁を守ったが安定せず、外野では与那嶺を中日に放出し、宮本、坂崎、国松、そして捕手から外野にコンバートされた藤尾がいた。しかし坂崎を5番打者に固定したが期待されたほどには大成せず、藤尾は死球やケガに悩まされ、宮本も勝負強いが安定せず、中軸打者は長嶋一人だけであった。, 6月30日の試合(1本足打法で打つ前夜の試合)、対大洋ホエールズ戦(14回戦、川崎球場)で川上は王を3番打者に起用したが2打数2三振1四球に終わり、途中で交代させられ、チームも中2日の左腕鈴木隆に抑えられて安打は須藤のテキサスヒット1本のみ、四球は2つで完封され、6安打完投の藤田を援護できず、9回裏の先頭打者森徹の本塁打により0対1でサヨナラ負けを喫していた。開幕から6月30日までの王の成績は、打率.259で本塁打は9本であった。, 試合終了後に王は川崎球場から荒川コーチの車に同乗して荒川の自宅に行って、特訓を受けた。王は後に「相手投手の投げるボールに差し込まれて、詰まる悪癖があり、荒川さんから『とにかく明日の試合では投手が足を上げたらこちらも足を上げて、始動を早くしてみよう』という指示を受けた」と語っている[48]。「荒川ノート」の6月30日の項では「いつになっても一定のポイントがつかめない。上体だけで振っているので・・・一瞬遅れて空振りする。手で振らずに、体で振るか、膝の捻りを使うか、どちらかでバットを振るようにしたらいい。」と記している[49]。, その翌日1962年7月1日、対大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー[50](15・16回戦、川崎球場)は、前日夜半から当日昼までの降雨の影響等により試合開始が30分遅れたため、同日の巨人は試合前の打撃練習を10分間延長。この日の第1試合で王を1番に起用した。その試合前の監督コーチ会議にて、別所毅彦ヘッドコーチが八つ当たりぎみに「王が打てないから勝てないんだ」と荒川に言い、荒川も頭に血が上り、思わず「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返してしまった(荒川は後年『三冠王を取らせる』というのは咄嗟にホラを吹いてしまったものだったと語っている)。しかし別所は揚げ足を取るように「そのホームランだけでもいいから打たせろ」と怒鳴った。困り果てて頭に血が上った荒川は、血相を変えて部屋を飛び出し、王をつかまえて「今日から一本足で打て。三振を怖がるな」と凄まじい形相で命じた[51][52][53]。, 「荒川ノート」の7月1日の項では、この試合前のこの会議で、3番王・4番長嶋・5番坂崎のクリーンナップが打たなければ優勝は出来ないと話し合い、特に王のバッティングは今のままでは到底長距離打者にも三割打者にもなれないと結論付けがされ、フォームが硬く、ステップの際に右肩が突っ込みすぎ、肩が入りすぎる等の問題点が出されたという[54]。なお、王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっそのこと右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている[55]。, この試合で王は初めて一本足打法で打った。しかしネット裏の報道陣はこの特異な打ち方に気がつかなかった。, 王は大洋先発のルーキー右腕稲川誠から1回表の第1打席2ストライク0ボールからの3球目外角カーブを右前ヒット、そして3回表の第2打席初球内角低めのストレートを右翼席へ先制の10号ソロ本塁打(通算第47号、16試合68打席ぶり)を打ち、6回表の第4打席で3番手の左腕権藤正利から二死満塁2ストライク3ボールからカーブを中堅左のヒットで走者一掃の活躍を見せ、結果は5打数3安打4打点だった。試合は王(3回表ソロ)・森祇晶(4回表ソロ)・塩原明(5回表ソロ)・藤本伸(8回表3ラン)の計4本塁打を含む13安打の猛攻と中村稔投手の2塁を踏ませぬ3安打完封とで、巨人が10対0で勝利した。第2試合でも王は1番に起用されて結果は4打数無安打であった。しかし荒川コーチはほっとしていた。「荒川ノート」にはこの日、「今までのタイミングの取り方をもっと大きくするように王に教えたが、(川上)監督がこれなら打てる、本当に頼もしいと言ってくれたのでちょっと安心した。・・このタイミングの取り方はかつて別当や大下選手らいろいろな名選手がやった型である。・・本当に助かったような気がした。」と記している[56]。後に荒川は「あの日ヒットが出なかったら一本足打法は止めさせていた」と語っており、たった1日で王の運命が左右されたことになる。ただし、この頃の王はフォームを変えることが珍しくなく、7月1日の試合におけるフォームの変化については、翌日の新聞は巨人の親会社である読売新聞をはじめほとんど報じていない。7月に入り王が立て続けに2本、3本と本塁打ペースが上がってきたところで「そういえば変な打ち方しているぞ」と騒ぎ始めたという[25]。開幕の4月から6月まで本塁打9本だった王は、7月の1ヶ月だけで本塁打10本を放ち、一気に本塁打の量産ペースを上げた。, 7月1日からシーズン終了までの王の後半の成績は、打率.282で本塁打29本であった。, 王自身も結果が出てきたことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、練習に打ち込むようになった。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家・羽賀準一のもとに弟子入りして居合を習うと共に、日本刀による素振りの指導を受けた[57]。, 特に有名なエピソードとして、「天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る」という練習があった。これは一本足打法の弱点を克服させるためであった。一本足打法は、投球のタイミングをずらされると通用しなくなるという弱点があった。7月1日に一本足打法を披露したものの、その後に国鉄の金田に同弱点を見破られ、早くも壁にぶつかることになった。例えば、金田は速球を投げる素振りをして、スローボールを投げる等で打つタイミングをずらす投法に出たのである。荒川も弱点は把握しており、弱点が見破られるのは想定内と考えていた。そこで一本足で立って、巧妙な投球であっても対応できる訓練を王に課した。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という精神鍛錬の目的もあった。, このような王の練習がどれ程のものだったかは、当時チームメイトであった広岡、藤田がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ。まさにすさまじい練習だった。あんな命がけの練習をする選手は今いない(広岡)」、「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!

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